August 16, 2009
狡智
Cold Case (2003~)
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特別なエピソード以外は一話完結タイプであり、作品は主に以下の順序で進む。
事件前の被害者とその周辺の様子。
事件が発生。被害者の死体と、解決されないまま箱に詰められた捜査資料が、未解決事件の棚へと移される。
現在。とあるきっかけで事件が動き出し、再捜査が開始。(⇒オープニングクレジット)
事件の再捜査。主に関係者の聞き込みで進む。関係者の証言(回想)を通じて当時の様子がヒット曲と共に描かれる。
事件が解決(クロージングシーン)。当時の音楽をバックに、事件の当事者たちのその後が数分間のシーンに描かれる。(⇒エンドクレジット)
事件が起こった当時の懐メロを数多く使用して、ノスタルジックな雰囲気を醸し出す演出は高い評判を呼んでおり、番組のアイコンともなっている。第2シーズンの「ボス」と「ナイフ」はそれぞれジョニー・キャッシュとジョン・メレンキャンプの楽曲が全編に渡り使用されて話題となった。但し、あらゆるヒット曲を贅沢に使っているために、著作権の問題でDVD化が難しくなっていると言われており、シーズンを重ねているにも関わらず未だにDVD発売は無い状態である。
ーwiki
安定的なテンプレート構造で、過去と現在の差異を浮き上がらせ、現在の捉えを示す非常に理知的なプロジェクト。なんとしてもDVD化してほしい。1話完結という洗練が、それぞれ一枚の絵画のように完成度がある。時間の推移というものの演出が雛形の中で、個体を浮き上がらせる。派手なアクションもなく、媚を売るような尖ったキャラもいない抑制された普通さが良い。スクリプトだけではなんとも冴えないものと予想されるが、映像となって生きるのはこういう形だろう。こうした文脈(過去•記憶)を扱う構造には見習うべきことが多くある。
*アメリカ合衆国では第一級殺人罪には公訴時効はない。
投稿者 machida : 05:24 AM | コメント (0)
November 13, 2008
彼方

アスリートが記録短縮のために肉体を鍛え、高度な新陳代謝を手に入れて思いがけない精神的な昂りを得るように、あるいはまた丹念に街の隅々の構造を日々マッピング蓄積を続けるタクシードライバーが、流動的な街の動きを時間と空間を含めて直覚し、鯨が磁力に導かれる本能に似た弁えで最短の道を見つけるように、目的とは別のギフトが、目の前に降ってくるというよりいつのまにか備わっていることがある。
どちらかというと目的自体というものは、進むべき指針にすぎないのであり、その方向に吸い寄せられる様々な事こそが、人間にとって曰く言い難い豊かさとなるものだ。
同じように、時間の経過とともに傍らに積み上げられていく溜息とデータも、そのボリュームが引き寄せる何物かがあり、繰り返し目にする出来事も、その反復が出来事を都度震わせ新しい印象や気分を呼ぶことがある。
変革・世紀の刷新・構造の破綻・テクノロジーの深化など、めくるめく時代の風に背筋を撫でられながら、怯えるように慌ただしく生きる現代の人間にも、百年前には備わっていなかった状況からのギフト、力が在るのであって、いかにそれに気づくかが命題でもある。
我々はこうして、到達点に集約するピークが、やがて交差し彼方へ分散拡張することを知り、繰り返される凡庸な目の前を、幾度も夥しい新鮮さで洗い流すともいえる。
みえることが、最新のテクノロジーによって、こうも変わるものかと驚くのは、単に解像度の精度ではなく、時代に潜在する未覚醒の把握の力が、刺激されるからだろう。
スタティックでシンプルな出来事が、豊穣な可能性を示すということを、最近になってようやく写真に見出し、1995年の当時は半信半疑の断面と摺り合わせることができるようになったのは、私が深化したのでなく、テクノロジーがようやく認識の渕へ促すレヴェルになったにすぎない。認識の彼方は未だに不鮮明だが、このギフトがもたらすものは、どうも生存のスタイルというものに、大きく関わってくるような気がしている。
投稿者 machida : 05:52 PM | コメント (0)
October 10, 2008
ル・クレジオ
2008年のノーベル文学賞にジャン・マリ・ギュスターブ・ル・クレジオ(1940~)が選ばれたと知り、青年の頃から幾度も再読する読みあさった作家だったので、次は古井由吉が受賞するような予感がした。
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指摘しておかなければならないのは、ル・クレジオの作品群が、水のような優しさ、透明さを湛えている、と同時に、血のような残酷さ、苦さ、赤黒さをも備えているという点だろう。ある種の読者が、心を鷲掴みにされるのは、この、甘やかでありかつ酸いという両義性ゆえでもあろう。 というのは、ル・クレジオの作品には、母や祖母の優しさだとか、肉の温みだとか、あるいは動物の体内に擬される室内の柔さだとかいった、形態保持的な行為ないしは運動とともに、しばしば皮膚に裂開が生じる光景や、強姦の場面、また壁の恒常的な破損といった、形態物のデカダンスが描きこまれているということであり、この点については処女作の『調書』以来、本質的には変わっていない。ーwikiより引用
←徳島新聞より画像引用
いかにも新しい世紀に必要な倫理の指針としてこの受賞の意味は大きい。
投稿者 machida : 01:37 PM | コメント (0)
May 01, 2008
Meet Joe Black (1998)
何度か観たはっずだったが、その度に浅い印象しかなかった。
脚本とカメラが実に丁寧であることに気づき、3時間の長編の意味と、演出に目を凝らすと悪くない。
寓話でありながら、Claire Forlaniのアメリカンレディーの清々しさ(自ら男の衣服のボタンを外し、途中仕草を止め相手に促す)と、Brad Pittのチェリーボーイぶりが良い。
開放を多用するカメラも美しいし、脚本と演出が、特に会話に顕われ、実によく練られている。今回はミネラルウォーターを流し込むように身体に染み渡った。
「死」を物語として表象する時、そのこと自体の描写は様々あるだろうが、普遍性を置いて、其処へ対峙する道筋を示すことは、なかなか現実的な体験となりにくいものだ。昨今のニュースと同じで、過ぎてしまえば消えていく。寓話が成功するのは、日々の何気ない出来事が、設定によって意味を与えられ、振る舞いや仕草、意識がゆるやかに変化して、むしろそれは活性化し、沈黙の中に明晰な認識を引き寄せることが可能になり、その仮想設定による試みに、新しい経験が導き出されることになる。
思えば凡庸なドラマであっても、構築の手法がそうした試みと可能的現実性を与えることは、受け止める側にとって意味深い。
投稿者 machida : 06:13 PM | コメント (0)
April 07, 2008
13
13 Tzameti (2005) / Géla Babluani(1979~) 恐るべし監督現れる。
Georgia出身という出自がイメージを強固にしている。描写が非常に丁寧で、絵がしっかりとしている。監督の年齢を確かめて、その老成した構築手法は、やはりフランスの文化土壌が育んだのだろうと感嘆。
主演が、監督の弟とはこれまた驚く。リメイクのオファーが47あったらしいが、自身でリメイクを行うことに決断したという。なかなか頑固がこれまた良い。
テーマ的に、寓話的でありすぎるが、寓話の設定よりも、設定に照応する人間のあり方、人間存在に対するリスペクトが、描写や演出に表れており好感がもてる。
やはり白黒は良い。ラストシーンはうつくしい。
何度も観ることができる作品。
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グルジアは、西アジア北端、南カフカス地方に位置する共和国。旧ソビエト連邦の構成国のひとつで、1991年に独立した。首都はトビリシ。ヨーロッパに含められることもある。
カフカス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ・アルメニア・アゼルバイジャンと隣接する。古来より数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温和な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。
ーwiki
投稿者 machida : 01:31 AM
March 31, 2008
Freedomland(2006)
Freedomland(2006) / Joe Roth(1948~) / novel and screenplay : Richard Price (1949~)
Samuel L. Jackson(1948~)が素晴らしいということの他に、原作と脚本がしっかりしており、The Forgottenでプロデューサーを努めたJoe Rothは、Julianne Moore(1960~)を似たシチュエーションで起用し、汚名挽回を図ったというところか。
新しい手法がどうのこうのというより、映画として、非常に良くできている。James Newton Howard(1951~)の音楽も、所謂映画音楽だが、奇をてらったものではなく、王道を感じさせる。おそらく、ロケーションとキャスティングが、こうした脚本にがっちり組み合わされると、全ての手法に道筋が明晰に示されるのだろう。Edie Falco(1963~)の存在感が、一際物語に現実感を添える効果があり、Julianne Mooreと相対して、印象に残る。Ron Eldard(1965~)の、物語に積極的な役割を与えきっていないところが、残念だった。
ひとつの出来事を支えるトータルな意味での、時代性、環境、社会背景が揃っていないと、物語は失効するという不安感に対して、脚本の大切さを示す良い例。ラストの、Julianne MooreがSamuel L. Jacksonに呟くシーンは素晴らしい。
投稿者 machida : 11:18 PM
March 17, 2008
Elephant(2003)
「透き通ったモノを身体に貫かせたい衝動」に従って再び二度三度と観ることなったGus Van Sant(1952~)の意識を辿り、これも何度か観た筈のLast days(2005)を、慌てて注文していた。
Murali K. Thalluri(1984~):2:37(2006)に対して、Gus Van Santが、「君の作品には物語がある」と賛辞を寄せた裏に、こちらはGus Van Santの作品には世界があるがままに開かれており、これを物語といっていのかどうか躊躇いが生まれる感覚を憶い出していた。
捏造とクリエイションはイコールではないが、作り込むことは、兎角誤解を生む。未熟なクリエイションにおいては、浅薄な思い込みによって世界の有り様を限定的な解釈として強制するような「悪意」に変貌することもある。
固有な眼差しを外へ放り投げることは、途轍もない緊張を孕むことを、Gus Van Santは示しており、この作品に触れることは、戒めにもなる。
投稿者 machida : 12:13 AM | コメント (0)
November 09, 2007
差異と言葉
「わたしは〜」
と言葉にするのは、「わたし」が他との差異(difference)にまみれていることからはじまる。
つまりいかに違っているかを率直に提示することで共感を得るというのは根本的に間違っているわけだ。むしろその逆となり、「あなたとは同じではない」と、同一幻想を断つための行為と言っていい。
「わたしは〜」と言い始めることは、別れのはじまりともいえる。
表現の多くは、これと同様であり、突き抜けたものであればあるほど、徹底的な差異となって、告白者は孤立せざるを得ない。
「わたしは赤いものが白いと感じる」
という言葉の持つ意味は、受け取る側にとって、
「あなたは赤いものを白いと感じる」という言葉以上でも以下でもない。
受け取る側に欠落している情態を想起させる以外、その言葉を打ち捨てるか、忘れるしかない。ヒトは、それが有用である場合に限って想起する。
だから多くは、
「わたしは〜」と語り始めることに消極的なのかもしれない。
魂は、然し、ぶすぶすと堪えた消極的姿勢の中で燻り続けるものだ。
固有である基本構造をもつ以上、この仕組みにへこたれないよう生きるしかない。
投稿者 machida : 07:15 AM | コメント (0)
August 31, 2006
子をつれて
まだ暗い早朝より尻が椅子に吸い付いたように座り、視力も集中も判断も冴え数日前であったなら混乱のまま放棄していた細かな雑務も難なく適宜処理し、少しは捗ったかと疲れなど手元や身体に感じないので、昨日の熟睡はやはり必要なのだなと人間の代謝を考えながら、別の作業を引き寄せる時、下校した次女より仕事場に電話があり、時刻を確かめると午後3時を過ぎていた。
この曜日は時限が少なく他の日より早く帰宅する娘は、プールに連れて行って欲しいと言う。気がつけば半日以上椅子で仕事をしていた。体感では正午過ぎで、3時間のズレに驚いたので了解した。1/3ほどに枝折紐を挟んだ「冷血」を大江戸線で数頁辿り直して文脈を憶いだし読む。移動中の読書は、闇雲な視線の反射や仕草の迷いを切断する快適な楽しみとなった。
80メートルクロール検定に合格した次女の饒舌を、既に夕方になりビルディングに遮られる赤い日差しがぱらぱらと差し込む飯田橋から千駄ヶ谷迄の列車の中くっきりと明瞭に聴き取りながら、この瞬間に救われていると喉元で呟いていた。
平日の夕方のプールには、まだ仕事を仕舞った人間の姿は少なく、ロッカーには午後の運動を終え着替える者が目立った。連日プールに身体を浮かべているわけではないが、娘の泳ぎは夏の初めよりも格段に動きが柔らかくなり進むスピードも目を見張るほどになっていた。都心のこのプールを有効に利用する、あるいはマニアックに身体を鍛錬する人々が黙々と回周を重ねる空間は、水しぶきと動物の呼吸が互いにその音を相殺するので、むしろ静まりが広がる。プールサイドのチェアで読書をする人を眺め、成る程読書には良いかもしれないと甘く感じたが、頭を水の中に潜らせて此処は泳ぐべきと戒めた。
サッカー観戦の観客が大勢溢れる駅前を手を繋ぎ改札を超え、飯田橋迄戻りそのまま次女を連れ暖簾をくぐる。夏合宿で石川県に行っている長女がまだ帰宅していないようなので、腹ぺこの次女はぺろりと肉と寿司を平らげながら、店の卓上で宿題の作文をはじめた。こちらは熱燗を2本。葛西善蔵「子をつれて」を憶いだす。