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June 29, 2009

文責

asahi.comのアサヒ・コムプレミアム有料コンテンツが和英併記で、学習にもなるが月々¥525か。唸ってブラウザでサンプルを眺め、新聞もそのうちに廃刊となる。大変そうだと記事を読みながら、New York Times、BBCと続け、そういえばロイターかどこかの通信社は、むしろ記者の雇用を増やしており、情報配信の有料コンテンツ化でグーグルと法廷で争うとの記事をおもいだしていた。再び天声人語を辿りはじめ、日本の新聞記事には文責が示されていないと、これまで何度も抱いた印象がぶりかえし腹立たしい。試験にでる天声人語とは、本当に天の声という気なのか。まさか、グループで印象の統合や記述の校正を行っているわけではないと思うが、記述者の名を隠蔽し、組織まずありきという態度が、こういうところでふん反り返っていることが、あまりに古くさいあらゆることの元凶と思われた。
2チャンネルに、
ー天声人語に至っては、記者が誰であるか特定されないようにして 陰湿で卑屈な気持ち悪い独り言を掲載している。 国民は、これが日本の一番の情報源になっている異常な状態に身を置いている事に気付かねばならない。ー
とあり、そういうお前は誰なんだと、これには思わず失笑した。
匿名というスタンスがネットで加速したという分析もあるが、この匿名性は、この国に巣食う責任を負わない気味の悪いノゾキの温床であり、卑怯で狡猾というより自己対象化を避けながら形骸の表象化を求める、云うなれば亡霊であり、新聞の記事の匿名性も、組織が責任を追うという無責任と同義であり、固有な存在の誇りに基づいて書いたということを無視した、言説言及を身をかわして逃れる前世紀的な手法にすぎない。

Nwe York Timesなど世界の報道記事のほとんどは、記事すべてにライターの名前が併記されており、報道写真も然り。その内容が固有な責任において成立している。迷惑メールの匿名性も然り、どうしてそうまでかたくなに亡霊忍者となりたがるのか? 組織で生きる人間の成熟した傾向がこうであるとすると、社会はおおきな勘違いを育ててきたということになる。何か言うなら自分のケツを晒せ。せいぜい名を名乗れ。

組織益まずありきの場にて会議を繰り返し、その場を凌ぐ時間つぶしのような発作、反射のような文脈のない稚拙な見解を投げ合う無能な集団の中で、時折的確で明快な合理を滲ませるまだ若い有能と思われる人間がいたが、しかし彼にも同じような匿名性を嗅ぎ取って少々追求すると、雇われているのだからこれ以上は何も言えない。責任をとるなど到底できない。簡単に首を切られるなどと答えが曇った声でトイレの中返ってきた。勿論怯えて何もいえない人間を雇う側にも問題があるが、本来的な有能がこうして頓挫していくのかとこの国の弱々しい組織の、海に浮かべればすぐに沈むハリボテ状態に呆れた。昨今の社会人の自殺者増加もこうした個体への社会的な環境対処という意味でのインフラの欠落が、精神的な疾患を増長させているという報告がある。退職まで密やかに狂わぬよう従属しなさい。その後で、自分の考えを聞かせてちょうだい。とはあまりに残酷で、若い人間に言えなかった。その時は、抑圧の箍がはずれて、別の意味で狂うかもしれないので。

名前を名乗るのは作家だけですよ。前述の若い人間の声がきこえた。

投稿者 machida : 08:05 PM | コメント (0)

June 23, 2009

報道と詩

トイレに座り込んでクーリエを捲り、添付されていた企画抜粋DVDの映像を思い浮かべ、やはりまた首を傾げた。編集長古賀義章(1964~)の肝いりの企画であるのだろう、ディス・デイ「希望の一日」は、webでもなかなか狡猾に展開され、その包括的な報道写真家世界79カ国132人の写真作品によって、オバマ大統領誕生を起点とする[HOPE]を視覚的に実現させようと試みるもので、さまざまに評価はされているようだ。多分私は、エディターが報道を詩的に結実させるというニュアンスに首を傾げた。
これは、例えば書き手は、「文学的」な文体に依存しない。むしろ却下し無視する。素人ほど所謂文学的表現に固執することに似ている。
報道の現実性は、手つかずに放下されたまま、その時間的瞬間性において結晶化されているという、本来的な意味において詩的なのであって、その詩の意味は、誤読も含んで大いなる可能性を孕んでおり、特定の出来事(今回はオバマ件)との関係性を構築したフォーマットに誘導する手法というものは、挙げ句、写真家の自在でゲリラ的な存在理由を希薄化させ、報道を類化短絡化させるような気がする。簡単にいってしまえば、編集者の露骨な現実世界への介入が恣意的に突出し、恥知らずな「まとめ」を提示するということになる。クーリエジャポンの創刊時の、フラットな併置グローバリズムと掲載される報道写真のクオリティーに、ようやく現れたと頷いていた者としては、身の丈に合わぬことを無理したりせず初心に戻れといいたい。もともとクーリエジャポンは、偏向恣意を嫌って現れた筈だ。優れた記事選別と翻訳の持続をこそ願いたい。

確かに数十億の人間が息をこらして静まり返ってひとりの人間のステートメントを聴いた。その事大性と報道写真を恣意で結びつけ、印象を増幅させる装置として工夫しても、出来事の意味の増幅はなされない。
報道写真の断片としての輝きは、断片として孤立するが故であり、孤高なものだ。むしろオバマという存在も緊迫した情勢の時間の中で、成熟を見極める必要があり、そこには、こうした企画の鎖を断ち切った、新たな報道の眼差しがなければならない。

いくら贔屓目に繰り返し眺めても、この企画には大衆を甘い香りで誘う途上国の匂いが強い。
こうした印象の成因は、個人的に、最近の北朝鮮が、20世紀初頭の日本外交と酷似していることが、残響のように頭に残っており、そのせいもあるのかもしれない。

投稿者 machida : 02:30 AM | コメント (0)

June 15, 2009

悲劇的な光景

緑化という倒錯と矛盾。屋上にプランターを置くことが最善であると、あなたは本当にそう考えているのだろうか?エコロジーという衣を羽織って吐く、幾つもの虚言はきりがない。

移りゆく車窓から高崎大宮浦和上野東京と、いつになく拳で頭を支え、時にはガラスに額を押し充て本を捲らず、ただひたすら光景を眺めていた。
悲劇の舞台背景セットのような、絶望的な世界だ。唐突な切断を示唆する夢の名残りもあったか。

膝小僧を鑢でけずり削いだ瘡蓋の乾かない幼子たちが、コンクリートの刑務所のように押しやられた学校の閉塞にストレスを隠し育て生活し、親である大人が切り崩した薬漬けの森の中、コロンと混ざったオゾンを至福に充ちた表情で吸い込み白いボールを追いかけるという世界だ。酷すぎて笑ってしまう。

東京駅付近の小学校では、プールに並んで腰掛けた水着姿の子供達が震えているようにみえた。

わたしたちはどんな世界で生きるべきなのかという鮮明で明快、正当性ある具体的機能的なビジョン(理念)が今われわれのイコンとして必要ということだ。

投稿者 machida : 11:38 PM | コメント (0)

June 07, 2009

日常

山の上からの眺望を得る為に苦しい登山をするといった比喩で、人間のなにかしらの獲得とその過程をイメージさせる教条的な示唆、暗示に我々は慣れている。これは自らを特殊へ導く、到達へ向ける傾斜のある過程を演繹設定する苦しい縛りに身を投じる緊迫にむしろ抑圧される、近代的、前世紀的イメージだ。ようするに過程は「頑張る」しかない。

日々、リラックスした状態で、どういった行為、行動を日常化させているかが、つまり無意識の登山であり、見慣れた習慣化した光景への無意識の介入、発声の放ちと吸収、繰り返される印象、肉体運動の反復などが、歩行のルート、辿る情報、午前と午後の安定的な(あるいは不安定な)経過の中で、静かに身の中へ骨の髄へ沈着し、見えた光景、聴こえた音、発声した言葉、疲労した身体の休息の眠りによって、実は、多くの獲得を既に達成している。

身の回りの利便的な必要の有る無しによって自ら選択決定した生活を送っていると自負する現代人は案外、意外な程、閉塞した生活を送っている。十年近くに渡るデスクワークによる身体的な故障(腰痛・身体能力低下)からの、二ヶ月以上に渡るリハビリで得た見解は、「水泳が必要」という初期に望んだ安易な短絡には落ち着かなかった。
日々歩き、移動し、食べ、話し、眺めるといった行動のスケールの欲望に応じた拡張と、それによって得た自由度によってこそ、多くの達成が肉体化して、伴う感覚が追随するように備わり降りてくることを今更に体感した。もともと歩行と移動によって支えられた、以前の十年と、そもそも本来的な性向がこの辿りを指し示したのだろう。不思議なもので、机の前に張り付いていた時には霧雨のように疲労が降ったが、明らかに多くの身体行動を伴う日を送る今は疲れがない。

金属を溶接する鑪の血の末裔も、爪の隙間や皮膚の皺まで黒い土が染込んだ農耕の末裔も、飛脚と問屋の混血の末裔も、その日々繰り返される時間の中で、多くを達成し多くを得て翌日の大気を呼吸している。そのような意味で、明日の呼吸が不自然に歪んだものとならぬように日々の行動を自在に拡張して日常化させることが人間的な達成を肉体化することになる。半世紀も生きてから判るとは、なんとも遅すぎる気づきだが、こうした紆余曲折に迷妄するのは、血に染まっている環太平洋を渡り巡るモンゴロイドの移動史が示す悲哀に満ちた宿命のようなものかもしれない。そしてこの迷妄する自己は嫌いではない。どこか健全な稚拙さに満ちている。

撮影というプレテクスト(口実)が牽引した快復移動には声をかけて誘って連れ歩いた老齢の両親も、最近は山の樹々を眺めてその植生と歴史を直覚できるほどになり、針葉樹の植林が過去の負の遺産と映るようになったらしい。同時に地方都市の都市開発の出鱈目で断片的な街路樹などのその樹々の種類や範囲、電柱などとの関係性を批判的且つ絶望的に私同様感じるようになったことは、取り立てて理念型情報学習などせずとも、移動による光景の眺めの時間がふっともたらした。時代の倫理というのはこんな風に備わると考えていい。

頑張らなくていいということは、日常を健やかに過ごせということだ。「頑張る」という言葉のヘンテコさに、我々は辟易しつつ、そのうちに死語へと封印し、全く異なったスタンス、態度の言葉を必要とするだろう。

投稿者 machida : 11:24 PM | コメント (0)