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June 28, 2007

コンピューター

自分で使うためだと明晰な目的を持って購入したのは、憶い返せば、42歳厄年の時で、これが、十代である場合を考えると、以降の人生そのものの形成の様相が随分変わる。ぎりぎりというより、デバイスのハード開発と照らせば、むしろ無理矢理な使用をはじめた年齢といっていい。もともと新しいものに興味を注ぐ気質であり、それが萎えなかっただけと云えばそれだけで済むが、多分廉価なコンシューマタイプが世に出回る時期まで、少なくとも10年は待っていたことになる。
27歳の時に、コンペで頂いた賞金をそのまま握りしめ秋葉原へ駆け込み、今思えば稚拙なPCを「これください」と40万ほど現金を突き出して購入していた。
未だにコンピュータなど知らずに日々を済ませる同世代も多いし、若い輩にもズボンプレッサーと変わりない使用感で付き合う者も多い。多種多様な距離はあるが、PCは、日曜大工道具よりも身近にあり、そのレスポンスは絶大といっていい。
体質的に駄目と言いきって、コンピュータなど切り捨てる生活も在るだろうが、それはそれでいい。
勿論こうなると分かっていたわけではないし、今後どうなるかということを世代的には、逼迫する事態と抱える者ではないが、生活は勿論、思考の動機、およびその基盤をPCに依存するか否かでは、以降の生の営みに大きな差が生まれるのは確かだ。
齢70を超えた父親にブログを教え、日々の描写をPCに向かって記録する無邪気が及ぼす効果は、おそらく彼の死後明らかになるであろうし、本人が自覚的に接していなくとも、遺されデータ化された言葉は、百年後に21世紀の人間の生と精神を新たに語り始めるだろう。
コンピュータの性能は後付けでいいと考えるようになるのは易しいし、未だ初期設定で騙し騙し使う人も多いが、性能に則った思考というものは必ず在り、アップグレードされたマシンの性能に応じた構想というものも在る。
故に、差別的な環境下にて、所謂「自在」を想像しなければいけないというのは、少々逆説的であり、哀しい。

投稿者 machida : 06:13 AM | コメント (0)

June 21, 2007

1991

黒沢より125ccoKawasakiオフロードバイクを貰ったは前の年だったと記憶している。1年は乗り回した。友人の折角の気持ちを冷酷に断ち切り、躊躇いもなくバイクを売り払った金で中古の6x6を購入し、闇雲に撮影を始めたのが、1991年で、1984年に欧州を回った時からはじめた35mmとは全く異なった感触で、平面や立体作品の記録も兼ねていたけれども、むしろそういった事以外の行動範囲を拡張して、レンズを通して現実を見つめ直すことにのめり込んでいったようだ。
この年の、自身の誕生日には雲仙普賢岳で大火砕流が発生し(死者・行方不明37人)、妹の知り合いの記者が亡くなった。フィリピンのピナトゥボ山が大噴火を起こしている。秋口には海部首相が退陣表明し、ミャンマーのアウン・サン・スー・チーがノーベル平和賞を受賞。どうやらティム・バーナーズ=リーによって世界初のWorld Wide Webサイトが開設されたのもこの年の夏頃らしい。4月には東京都庁が丸の内から新宿副都心に移転している。
長女は1歳。善光寺の裏に棲み、制作ノートと称した日々の記述をワープロで始めている。当時の記述は内向的で、どうも禅僧を気取るようなところがあり、ひたすら学究の徒のような短絡で発表等考えず画布に向かう覚悟を決めていた。
鮮明で明快な6x6のポジフィルムの存在が、そうした1991を今此処に引寄せて、現在は解体され存在しないレンガ造りの国鉄長野旧駅舎の中に忍び込んだ時にシャッターを押した数枚を選んだ。年が明けて亡くなる祖母に、初冬の母親の実家の炬燵で6x6を向けている。
誰と何を一体話していたのか全く記憶がないけれども、1991の態度が得たと思われる大気の感触と、当時の予感をまだ其処に見てとれる。

投稿者 machida : 07:20 AM | コメント (0)

June 10, 2007

寓話という説明と物語

語り手が順序だてて語るさまざまな出来事は、都度説明的でなければ了解されないという不安はある。だが、説明で出来事を全的に伝達できるかどうかという不安もまたあり、説明という観念では掬えない「なにか」が其処に在るだろうことも、薄々感づいている。徹底した寓話は浅い了解の輪の中に立つことを易しくするが、度々、輪自体の正当性は後回しにされ、あるいはまた、輪自体が間違っている場合もある。

テーブルの上のグラスが、銃弾で弾けとんだ理由を知りたいと願うのは、目撃者ではなく、語り手であり、砕け散ったガラスの破片が光を浴び、反射する煌めき自体の「停止」を、そのまま見つめるには力量(能力)が必要となり、ある意味苦しい眺めでもある。銃弾の発射を引き起こした指先へ関心を移動させる「語り」は、グラスという光景を即座に失効させ、別の「光景」を呼ぶ。

水の奔放な流れの中を漂って在るような人間の感覚は、流れの同時性に率直に同期しながら、源流と流れの果てを夢想する傾向があるので、憶測・誤解・無知・間違い・確信などを無邪気に纏わらせることはむつかしくない。上下左右を失ったような感覚の中で、絶対的な非在であることが自明の「イコン」をみつめる瞬間、身につけた様々な解釈の手引きは剥離し、ひたすら「はじまり」に居ることしかできない。ゆえにその「イコン」とは、必然的に時間に直接的に関わるのであって、点でもあり線でもある矛盾した魔力を、存在の理由としてあらかじめ持っている。

恣意と「イコン」が手を組むことを、長い間、ウィルスに冒された諦めと排他する傾向があったが、実は、この「恣意」も、「イコン」生成の為の非人間的な変換に含まれている。但し時々、人間的なるわけのわからない変換への「触れ」が見事な触媒となる場合がある。

「触れ」は、決して語る事ができない可能性として平等に在るだけだが、この偏在の理由は、知覚(世界)の理由と重なる。

投稿者 machida : 05:50 AM | コメント (0)