January 17, 2010

一族郎党

 どこまで厳密してよいものかわからないが、娘から数えて祖父母を中心に、簡単な系譜図をつくてみると、こちらからしての(つまり妻のほうを数えずに)姪甥から曾祖父母まで辿ると、約100名を超す。
 三、四世代前は、いずれも兄妹が多く、末端がその分広がるので、全ていれると、10倍に膨れる。各同伴者を一度の婚姻で系譜が結合されるとして、こちらの世代で従兄弟たちの連れ添いの家系図が重なり、つまり、四世代、高々百年の人間の営みによって、2000人以上の一族郎党が、なかなかよくは見えないが、実は位相的に構造されているわけだ。
 三世代以上が同居する大家族というものが、前世紀末に消滅し、核家族となって、この一族郎党というスケールも、実質的に認識されないし、父親に聞いても、曾祖父母の兄妹の名前を失念していたり、祖母方の詳細を知らなかったり、付き合いも無いまま過ごして不都合はなかった。こちらとしても、久しく会っていない従兄弟の連れ添いの出自、家族等、名字もしらない。
 こうした系譜の重層的な構造を知った上で数十万の人口の村や町の共同体はと考えると、これもひとつの一族郎党みたいなものだ。他者同士の共同体でありながら、この位相構造が、何か精神的なものとなって、共同体を支えるのかもしれない。
 勿論、ある世代の、誰かがアウトサイダーとなって、こうした環境を壊す要素を持ち込み、あるいは、持ち出して、系譜の血流は、時に異系を育むわけだが、家族という関係性や付き合いもその場その場の都合で、認識の度合いは強弱があるにしろ、適宜省かれ、削除され、絶縁まで至っても、構造はそのまま大きく横たわって広がりながら持続する。
 然し、親族という関係性の馴れ馴れしさは、例えば父親や、祖父母の戦前、戦後を生きた世代にとっては、時に、五月蝿くて羞恥にまみれたこともあり、そういった馴れ合いからの逃走劇として核家族化を考えることもできるし、それ以降も説明はできる。明治後半から人口が急増した大正、昭和初期までの、固有な全体の流れが、こうした様々を生み出して、わたしに娘がふたりいるというわけだ。でもここで、娘ふたりが別姓へ嫁に行けば、姓名としての系譜は娘の世代の婚前で途切れるということになる。なるほどそういうことで、系譜などということを考えるのは、こちらの位置的な義務として降ったということか。

Posted by : machida : 10:47 AM | Comment (0)

January 09, 2010

最近のお子様仕様

 ファンタジー寓話などの最近のお子様仕様には、ほとほと辟易すると、正月がっつり大人の複雑な読書探求をしたゲンタよりメールがあり、これは購買を促進する為の悪しき退化の顕著な現れだと、こちらも、娯楽小説の原文を裏読みしなければ先に進めない、しょうもない翻訳家のものを途中で放り出して、誰にでもわかるという所謂「安易」なつくりもの、そこへ投入する、日々低下する技術の、なんとも情けない傾向を重ねた。

 子供たちと大人が対峙する現場での撮影の仕事があって、この現場は以前より、こどもたちにたいして、大人は諭し、あるいは命令し従属させようなどと勿論しないと、戒めているので、こどもたちが自由に動くスペースを提供することだけに集中している。こどもたちは日々の、親や環境での抑圧の箍がはずれたようで、目元に炎が灯ったような顔つきで、初めて押し付けがましい説明の無い世界に放り出され、途方に暮れることを即座に生存のエネルギーに蓄え変え、野生の獣が世界を眺めているような、実に美しい探検者の行動を開始する。

 彼らに分かりやすい寓話など必要ではないと、つくづく感じるし、未熟な大人の了見で、甘いモノを差し出すのは、せいぜい祖父母だけでよい。
 アニメに氾濫している(のだろう。よく知らないが)、友情やら、愛やら、正義やらは、つまらない大人風情が、こどもを丸め込もうとする「毒の罠」であり、勝手に考えさせたほうがいい。ただし、どういった環境で、思考の芽を育ませるかが、本来の大人の役割であり、それ以上の役割は勘違いというものだ。

 早熟な小学生は、サド伯爵を読むことのできる時代である。そしてとかく、ものを考えははじめているものは、日々の風評、風説などには興味を無くし、固有な視線が生まれるが、共有できるものでないから孤立せざるを得ない。大人は余計なことをせず、その孤立を助けなければいけない。

 この場合のサポートは、固有なる眼差しの孤立を持続させてあげることであり、それを安易に理解することではない。かれらの持続の結果、その行方がどうなるかは、かれらの人生が決めることであり、大人が決めることではない。

 

Posted by : machida : 05:24 PM | Comment (0)